仙台高等裁判所 平成元年(ネ)214号 判決 1992年4月23日
控訴人
佐野献道
控訴人
吉田良道
右両名訴訟代理人弁護士
小見山繁
同
河合怜
同
川村幸信
同
山野一郎
同
小坂嘉幸
同
弥吉弥
同
江藤鉄兵
同
加藤洪太郎
同
富田政義
同
華学昭博
同
片井輝夫
同
伊達健太郎
同
仲田哲
同
竹之内明
右河合怜訴訟復代理人弁護士
渡部修
被控訴人
宗教法人蓮淨寺
右代表者代表役員
西野玄正
被控訴人
宗教法人願成寺
右代表者代表役員
山本法光こと
山本光庸
右両名訴訟代理人弁護士
宮川種一郎
同
松本保三
同
松井一彦
同
中根宏
同
中川徹也
同
桐ケ谷章
同
千葉隆一
同
吉田麻臣
同
小林芳夫
同
今井吉之
同
小林政夫
主文
一 控訴人らの各控訴に基づき、原判決をいずれも取り消す。
二 控訴人ら及び被控訴人らの各訴えをいずれも却下する。
三 訴訟費用は、第一、二審を通じ、これを二分し、その一を控訴人らの、その余を被控訴人らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人ら
1 原判決をいずれも取り消す。
2 控訴人佐野献道が被控訴人宗教法人蓮淨寺の代表役員及び責任役員の地位にあることを確認する。
3 控訴人吉田良道が被控訴人宗教法人願成寺の代表役員及び責任役員の地位にあることを確認する。
4 被控訴人らの請求はいずれも棄却する。
5 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
二 被控訴人ら
1 本件各控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人らの負担とする。
3 原判決主文一、二項につき仮執行宣言
第二 当事者の主張
当事者双方の主張は、次のとおり訂正、付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
一 原判決七枚目表一行目、同五行目、同九枚目表一〇行目、同裏三行目の各「権限」を「権原」と、同一〇枚目表末行目の「地位」を「職」と、同一一枚目表末行目の「選任」を「選定」と、同二三枚目裏八行目及び同三四枚目裏四行目の「僧侶」を「僧俗」と各訂正し、同一一枚目裏一行目から二行目の「ことができる」を削除する。
二 当審における控訴人らの主張
1 懲戒処分事由の該当性についての審判権
裁判所は、教義、信仰の正否について判断してはならず、教義解釈をしてはならないから、宗教団体の構成員が教義に反する言動をしたことを懲戒処分の理由として主張されても、その言動が教義に反するか否かを審理判断することは許されない。
しかしながら、被処分者から当該処分の効力が争われるにあたって、処分手続違背ないし処分対象事実の不存在、特に、処分対象とされた言動が教義に関しないものであること、もしくは、処分手続に瑕疵のあることが指摘される場合、又は、右処分が権利濫用であることが主張される場合は、これらの事由の存否は、いずれも教義の解釈とは無関係に裁判所が審判しうる事実であるから、裁判所は右主張について審理判断すべきである。
本件の場合、代表役員、管長の地位の前提としての法主選任準則は、教義解釈とは無関係な法規範であり、本件懲戒処分事由として被控訴人らの主張する事実は、控訴人らの阿部日顕(以下「日顕」という。)に対する昭和五六年一月一一日付け通告文による通告(以下「本件通告」という。)、その公表、静岡地方裁判所に提起された日顕を被告とする訴訟(以下「管長事件」という。)における主張によって日蓮正宗の教義及び信仰の根幹をなす金口嫡々唯授一人の血脈相承を否定する異説を唱え、管長に対し誹毀、讒謗をし、異説を改めるべく訓戒したが、控訴人らはこれを改めなかったというものであるが、右通告文及び訴訟における主張は、いずれも教義に関するものではなく、本件におけるその他の争点は、処分に重大な手続違背があるか否か、処分が権利濫用であるか否かであるから、裁判所は、本件懲戒処分(以下「本件処分」という。)の効力について審理判断することができる。
2 懲戒処分事由の不存在
(一) 控訴人は、異説を唱えていない。
宗規二四九条四号にいう異説とは、教義上の説である。
前記通告文の内容は、日顕が正当に法主・管長に就任していないことを認めた場合の宗規上の効果について確認したものであり、教義に関する主張ではない。
また、管長事件における主張は、請求を理由あらしめるための具体的事実の存否に関する主張そのものであって、教義に関するいかなる主張をも含むものではない。すなわち、教義、信仰上の「血脈相承」とは、日蓮正宗の正しい仏法が法主から法主へと正しく伝えられて来ているという宗教的確信の基礎をなす信仰上の概念であって、社会的事実を示す概念ではないが、日蓮正宗においては法主交替に際して「血脈相承」「ご相承」「内相承」と称される儀式行為が行われることがあり、これは、信仰上の血脈相承を表象する事実行為である。右儀式行為の存在は、法主選任の意思表示がなされたことを推認させる間接事実として事実認定の対象とされることが可能であり、控訴人らが、管長事件の訴状において、相承が行われた事実はないと述べたのは、かかる儀式行為が挙行されなかったことを指摘したものである。
右のとおり、前記通告文及び管長事件における主張は、いずれも教義に関する主張ではないから、異説とはなりえない。
(二) 控訴人らの行為は、管長に対する誹毀、讒謗にあたらない。
前記通告文及び訴状等の記載が管長に対する誹毀、讒謗にあたるとするためには、日顕が管長であることの認定が前提となるが、同人の管長たる地位の取得原因事実について、被控訴人らの的確な主張立証が存在しないのであるから、「管長に対する誹毀、讒謗」との処分事由は存在しないというべきである。
また、前記通告文の内容は、日顕が正当に法主・管長に就任していないことを認めた場合の宗規上の効果について確認したものであり、右通告文の内容及びこれを送付したことは誹毀、讒謗にあたらない。
前記訴状等の記載内容も誹毀、讒謗にあたらない。そもそも団体の最高機関たる地位に就いたと称する者の就任原因事実の存在に疑義が生じているにもかかわらず、その者が就任原因事実について提起された疑問に答えようとしない態度に出ている本件の状況のもとで、右疑念を抱いた控訴人ら構成員が訴えを提起して裁判所においてその者の法律上の地位の存否を争うことは社会的に相当な行為であり、違法性はないといわなければならない。そして、右訴えの提起それ自体に違法性がない以上、右請求を理由あらしめるための事実の陳述、とりわけ相手方主張を争う趣旨の事実陳述は、特に相手方を誹謗、中傷する意図をもって事実を歪曲し、又は、敢えて虚偽の事実を述べたものでない限り、許容されるべきものであり、右訴状等の記述が右に該当せず、その意図においても表現においても相当であることは明白である。
原判決は、日蓮正宗内で日顕が法主・管長として扱われているから法主・管長であるとした上で、管長の地位にある者に対してなされたその地位を否定する趣旨の記載等は当然に管長に対する誹毀、讒謗にあたるから、団体からの放逐処分である本件処分は正当であるとするのである。結局、原判決は、私的団体内部で現に権力を有する者の判断は常に正しく、これに反する少数者の判断は全て誤りであるとするのみならず、その事実の存否について裁判所の判断を求める行為すら違法であると断ずるのであり、到底許し難い判断であるといわなければならない。
3 処分手続違背
日蓮正宗においては、宗規二四九条四号にいう異説とは、教義上の主張であって、宗規一五条五号により責任役員会の議決を経て管長により異説と裁定されたものをいうのであるが、本件においては、<書証番号略>に、昭和五七年一月一六日責任役員会において、「現法主の血脈を否定し、前法主が生前において誰人に対しても血脈相承をなされなかった旨の主張が異説であること並びにこのような異説を唱える者に対し訓戒をなす件」が議案として提出され、承認可決した旨の記載があるものの、宗規一五条五号による管長の異説裁定が行われたことを示す証拠はどこにも存在しない。
本件処分においては、その手続上最も重要な管長の「異説裁定」が欠けたまま処分が行われることとなったものであり、この点において既に宗規二四九条四号を処分事由とすることはできないもので、本件処分には重大な手続違背がある。
4 権利濫用
本件処分は、懲戒権の濫用であって無効である。
宗教法人日蓮正宗内部には、池田大作率いる宗教法人創価学会と協調する勢力とこれに対抗して宗門の自立性を擁護しその存立、維持を目的とするいわゆる正信覚醒運動の推進勢力とがあるが、前者に属し、第六七世法主・管長を称する日顕は、正信覚醒運動の抑止、制圧を狙って、右運動を推進する僧侶全員を順次僧藉剥奪の処分に付して宗門の外へ放逐する挙に出たものであって、本件処分もその一環にほかならない。処分者側としても、この真実の理由をあからさまにして処分することは宗規の上で不可能であったため、「異説主張・管長讒謗」に藉口して本件処分をなしたものにほかならない。この様に、本件処分は、客観的に見て、処分者側に、正信覚醒運動を抑止、制圧して池田創価学会の宗門支配計画に左袒し宗門内での自己の地位を保全する利益をもたらす一方、被処分者側には、単に、全生涯を僧侶として宗門に捧げているその宗門僧侶としての人生を剥奪する不利益をもたらすに留まらず、その宗門擁護活動そのもに著しい不利をもたらし、ひいては宗門自体の自立的存立を危うくする結果を招来する。よって、本件処分は権利の濫用であって無効である。
5 原判決の憲法違反及び判例違反
原判決は、宗教団体の自治という一見極めて耳障りのいい言葉に眩惑されて、具体的事実を認定し、これに法令を適用して当事者間の具体的な権利義務関係又は法律関係の存否に関する紛争を解決するという裁判所本来の任務を忘れ、具体的客観的事実以外の事実に法令以外の準則を適用するという誤りを犯し、その意味で憲法七六条一項、裁判所法三条一項に違反し、ひいて憲法三二条に違反する。また、原判決は、宗教的判断あるいは評価を加えなければ覚知しえない事実の存否が法律上の地位や権利義務関係判断の必要不可欠の前提問題となっている場合は、裁判所は、当該宗教団体の宗教的判断あるいは評価を是認し、宗教的判断あるいは評価を加えなければ覚知できない事実が存在すると信仰された場合は存在するものとして、存在しないと信仰された場合は存在しないものとして実体判断するという法理を採用しているが、これは、憲法七六条、裁判所法三条、憲法三二条に違反するばかりか、信教の自由を定めた憲法二〇条に違反する。
また、原判決は、判例にも違反している。
三 当審における被控訴人らの主張
本件訴訟の訴訟物は、被控訴人らからの控訴人らに対する建物明渡請求権であり、私法上の権利義務の存否をめぐる紛争にほかならず、その争点も本件処分が日蓮正宗の内部規範である宗制宗規に則ってなされたか否かという裁判所の審判可能なものに限られているのであって、本件は紛れもなく法律上の争訟である。
教義、信仰の内容について裁判所の審判権が及ばないのは当然である。しかし、いささかでも教義、信仰が関係する事項については、およそいかなる形においても裁判所の審判権が及ばないというわけではない。請求の当否を決する前提問題に、教義、信仰と何らかのかかわりあいのある事項が存在する場合であっても、裁判所が教義、信仰の内容それ自体についての判断をすることなしに請求の当否を決することができる場合がある。
団体のなした懲戒処分は、当該団体の自律作用の発現であるから、裁判所は原則として当該団体の自律を尊重し、処分の当否は当該団体が自律的に定めた規範に照らし、適正な手続に則ってなされたか否かによって決すべきであり、その審理も右の点に限られる。しかし、1処分の基礎とした事実の重要な部分に誤認がある、2手続的適正を著しく欠く、3裁量権の範囲を著しく逸脱するなど、処分が明らかに公序良俗に反すると認められる特段の事情が存する場合には、例外的にこれらの点についても審理が及ぶ。
右の理は、宗教団体のなした懲戒処分についても当然妥当する。宗教団体であることを理由として取扱いに差異を設けることは憲法一四条の平等原則に反する。のみならず、宗教団体における自律権は憲法二〇条によっても保障されているのである。
憲法二〇条が保障する宗教結社の自由は、宗教団体が国家の干渉を受けずに団体の内部事項(なかんずく、教義、信仰に関する事項)を自由に決定しうる権利を当然に包含する(宗教的自律の保障)。その内容は、第一に、宗教団体がその内部事項について自律的に決定した内容(自律結果)に対しては、国家権力による不当な介入、干渉が禁止されるという側面(消極的側面)と、第二に、国家権力は、宗教団体における自律的結果を最大限に尊重しなければならないという側面(積極的側面)がある。
そして、ある宗教団体にとって何が正当教義であり何が異端であるかは、当の宗教団体自身が自律的に決定すべき純粋な内部事項である。そして、その点について、当該宗教団体において自律的に決定された結果が存する以上、裁判所としては、右宗教的自律を尊重すべき憲法上の義務を負い、裁判にあたっては、右自律結果を所与の事実として判決すべきであり(積極的側面の適用)、教団のなした宗教的価値判断の当否を詮索することは右自律結果に対する不当な干渉として許されない(消極的側面の適用)。
もとより、異説を唱えたことを理由として、教団が懲戒処分をなすからには、被処分者の所説が異説に当たる旨の宗教的判断が教団内においては先行しているわけである。しかしながら、それは宗教的次元での問題であって、右懲戒処分の効力を世俗の裁判所が事後的に判断するに際しては、異説に当たるか否かという点は審判の対象とはならないし、それゆえ争点ともならない。裁判所における審判の対象となるのは教義裁定ないし懲戒処分が所定の手続を経てなされたか否かという点に限定されるのである。裁判所が自ら異説にあたるか否かを判断できなければ懲戒処分の効力を判断できないと考えることは誤りである。
宗教団体において異端を理由とする懲戒処分がなされた場合には裁判所は懲戒処分の効力を判断できないとすると、結局、その点の判断を請求の前提問題とする一切の具体的法律関係を不確定のまま放置することになり、種々の不当な結果が生じる。すなわち、宗教団体内部で異端を理由とする懲戒処分がなされても重要な部分で実効性が伴わず、異端を理由とする懲戒処分とそれ以外の理由による懲戒処分との間で均衡を失し、財産関係について無法状態が容認されることにより、自力救済を誘発する危険性があり、権利関係が裁判で確定されない結果、法律関係が不安定なまま永続することになり、その他、放置し得ない様々な問題が全国的に多発する。
本件訴訟は、被処分者たる控訴人らが異説を述べたことに加えて、管長に対して誹毀、讒謗したことが処分事由とされているが、ある言動が管長に対する誹毀、讒謗に当たるか否かという点は、一般の社会通念に従って判断することが可能である。
本件訴訟において、控訴人らは、本件処分の無効事由として、日顕は血脈相承を受けていないので、法主・管長の地位にないと主張している。しかし、この主張は、そもそも第五回全国檀徒大会の開催をめぐってなされた懲戒処分に対抗するため、控訴人らを含む擯斥処分を受けた元僧侶らがその訴訟戦術として新たに作り出した争点であり、全くの言い掛かりに過ぎず、右主張はまともに取り上げるに値しない。なお、処分権者の地位をめぐる争点について何らかの判断が必要であるとしても、日顕が法主・管長の地位にあるという事実は不動であり、裁判所は、これを所与の前提として判決すべきである。
第三 証拠関係<省略>
理由
一本件においては、被控訴人宗教法人蓮淨寺が、控訴人佐野献道に対し、包括宗教法人日蓮正宗が同控訴人を僧藉剥奪処分たる擯斥処分に付したことに伴い、同控訴人が蓮浄寺の住職たる地位ひいては同被控訴人の代表役員及び責任役員たる地位を失い、同被控訴人所有にかかる原判決添付第一物件目録記載の建物の占有権原を喪失したとして、右建物の所有権に基づきその明渡しを求めるのに対し、同控訴人は、右擯斥処分は日蓮正宗の血脈相承を受けず法主を僣称し、管長たる地位を有しない者によってなされ、かつ、日蓮正宗宗規所定の懲戒事由に該当せず、処分手続に違背し、懲戒権の濫用に当たる無効な処分であると主張するとともに、同控訴人が、同被控訴人の代表役員及び責任役員の地位にあることの確認を求め、また、被控訴人宗教法人願成寺が同様の理由で原判決添付第二物件目録記載の建物の明渡を求めるのに対し、控訴人吉田良道は、控訴人佐野と同様に主張し、同様に地位の確認を求めている。
二ところで、裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、法令の適用により終局的に解決することのできるものに限られる。したがって、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であっても、法令の適用により終局的に解決するに適しないものは同法にいう「法律上の争訟」に当たらず、裁判所はこれを審判の対象として、これに対し実体判断(本案判決)をなすことはできないものと解すべきであるところ、宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきである。このことは、憲法二〇条のほか、宗教法人法一条二項、八五条の規定の趣旨に鑑み明らかなところである。かかる見地からすると、特定人についての宗教法人の代表役員等の地位の存否を審理判断する前提として、その者の宗教団体上の地位(法主、住職など)の存否を審理判断しなければならない場合において、その地位の選任、剥奪に関する手続上の準則で宗教上の教義、信仰に関する事項に何らかかわりを有しないものに従ってその選任、剥奪がなされたかどうかのみを審理判断すれば足りるときには、裁判所は右の地位の存否の審理判断をすることができるが、右の手続上の準則に従って選任、剥奪がなされたかどうかにとどまらず、宗教上の教義、信仰に関する事項をも審理判断しなければならないときには、裁判所は、かかる事項について一切の審判権を有しない以上、右の地位の存否の審理判断をすることができないものといわなければならない。したがってまた、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が右訴訟にかかる請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点(訴訟法上、請求の原因、抗弁、再抗弁等いずれの主張としての争点であるかにかかわらず)をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその処分の効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟はその実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである。このことは、最高裁昭和六一年(オ)第九四三号、第九四四号平成元年九月八日第二小法廷判決、いわゆる蓮華寺事件の判旨によっても明らかである。
被控訴人らは、右のような場合においても、当該宗教団体において自律的に決定された結果が存する以上、裁判所としては、右自律結果を所与の事実として判決すべきであると主張する。しかし、右自律結果をそのまま肯認して、宗教団体内の異端紛争について実体判決をした場合、結局、裁判所は、宗教団体内部の対立する一方の立場を支持する結果となり、裁判所の宗教上の教義、信仰に対する不干渉、中立性を害することとなる。これは、憲法二〇条、宗教法人法一条二項、八五条の趣旨に悖るものであるといわなければならず、右見解は採用できない。
また、被控訴人らは、宗教団体において異端を理由とする懲戒処分がなされた場合には裁判所は懲戒処分の効力を判断できないとすると、自力救済を誘発する危険性が生ずるなど種々の不当な結果が生ずると主張する。確かに、民事訴訟制度が、私的紛争における強いもの勝ちという力による即ち公序に反する手段による解決を回避するために、国家が関与して公権的に公正な解決を図る目的で設けられた制度であるということからすると、裁判所が右のような懲戒処分の効力を判断できるという見解も必ずしも首肯できないわけではない。しかし、こうした自力救済及びこれによる混乱を阻止する術が全くないわけではない。宗教法人法八六条、八一条、その他刑事処罰法規などによる公序に反する自力救済の歯止め効果が期待される。そして、そもそも政教一致の弊害に対する反省に立って裁判所の宗教的中立性を保持することは憲法が強く要請するところである。裁判所は、宗教的紛争の一方当事者に肩入れするような結果をもたらしてはならない。こうした紛争の解決は、当該宗教団体内部における知性ある宗教家らの公序に悖らぬ方法による自治的解決に期待すべきものである。そうすることによってこそ、民衆や多くの信者の宗教的信頼を得ることができるものと考えられる。
三被控訴人らは、宗教法人日蓮正宗に包括される宗教法人であり、被控訴人らの寺院規則によれば、被控訴人らの代表役員(責任役員でもある。)は、被控訴人らの住職の職にある者をもって充てることになっていること、住職、代表役員は各寺院所属の建物を占有する権原があること、住職は、日蓮正宗の教師の資格を有する僧侶の中から日蓮正宗の管長が任命することとされていること、控訴人らは管長によりそれぞれ被控訴人らの住職に任命されたこと、日蓮正宗においては、管長が、責任役員会の議決に基づいて、擯斥処分を含む僧侶に対する懲戒処分を行うとされていること、管長は法主の職にある者をもって充てることとされていること、日蓮正宗宗規一四条二項には、「法主は、必要を認めたときは、能化のうちから次期の法主を選定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる。」と定められていることは、当事者間で争いがなく、<書証番号略>によれば、宗規二条には、「本宗の伝統は、外用は法華経予証の上行菩薩、内証は久遠元初自受用報身である日蓮大聖人が、建長五年に立宗を宣したのを起源とし、弘安二年本門戒壇の本尊を建立して宗体を確立し、二祖日興上人が弘安五年九月及び十月に総別の付嘱状により宗祖の血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。」と、同一四条一項には、「法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、本尊を書写し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する。」と定められていることが認められる。
また、日蓮正宗の内部において創価学会を巡って、日顕や宗務院側といわゆる正信覚醒運動を進める僧侶たちとの間で、教義、信仰ないし宗教活動に関する深刻な対立が生じ、その紛争の過程において、日顕への血脈相承が疑わしいとの手記が発表されたため、その点について日顕に直接質するため、正信覚醒運動を進める僧侶らと主張を同じくする僧侶らによって結成された正信会と称する団体の僧侶らが、日顕に対して、「貴殿は昭和五三年四月一五日故日達上人より内密に相談を受けられたとのことでありますが、相談内容は具体的にどのような内容でありましたか。」等の四項目にわたる質問を行い、これに対し、日顕から回答がなされなかったため、控訴人ら多数の僧侶が本件通告を行ったうえこれを公表し、更に、静岡地方裁判所に対し日顕を被告とする日蓮正宗の代表役員等地位不存在確認請求事件を提起したことは、原判決が認定するとおりである。(原判決五四枚目表五行目から五七枚目表一一行目までを引用する。)そして、本件通告の内容は、「貴殿には全く相承が無かったにもかかわらず、あったかの如く詐称して、法主並びに管長に就任されたものであり、正当な法主並びに管長と認められない。」などというものであり、管長事件における控訴人らの主張は、「前法主細井日達上人の生前において相承がなされた事実は存しない。」「阿部日顕の法主の地位は、宗制宗規に基づかない、いわば僣称に過ぎず、正当な根拠なく就任したものである。」などというものであること、日蓮正宗が、控訴人らの右言説を異説だとして控訴人らに対し異説を改めるよう訓戒したうえ、宗規二四九条三号(言論、文書、図画等をもって管長に対し、誹毀または讒謗をした者。)及び同条四号(本宗の法規に違反し、異説を唱え、訓戒を受けても改めない者。)に該当するとして、控訴人らを僧藉剥奪の擯斥処分に処し、管長阿部日顕の名で右処分の宣告書を作成し控訴人らに送達したことは、当事者間で争いがない。
そうすると、本件においては、控訴人らが本件処分によって日蓮正宗の僧侶たる地位を喪失したのに伴い住職たる地位ひいては控訴人らの代表役員及び責任役員たる地位を失ったかどうか、すなわち本件処分の効力の有無が本件各請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が本件紛争の本質的争点をなすとともに、その効力についての判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものであるところ、その判断をするについては、控訴人らに対する懲戒事由の存否、すなわち、控訴人らが前記言説が日蓮正宗の血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説に当たるかどうか、管長に対し誹毀、讒謗をしたといえるか否かの判断が不可欠であるが、右の点は、日蓮正宗の教義、信仰と深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することのできない性質のものであるというべきである。
控訴人らは、本件通告は、日顕が正当に法主・管長に就任していないことを認めた場合の宗規上の効果について確認したものであり、教義に関する主張ではなく、異説には当たらないなどと主張するが、前記認定のような本件通告に至る経緯、通告文の内容からすると、日顕が血脈相承という宗教上の行為を受けていないことを言っていることは明らかであり、<書証番号略>によれは、通告文には、「信仰上重大なこの疑念を晴らして戴くため」などと記載されていることが認められることに照らしても、その通告の内容が日蓮正宗の教義、信仰に深くかかわるものであり、教義、信仰の内容に立ち入ることなくして、本件通告が異説に当たるか、管長に対する誹毀、讒謗に当たるかを判断することはできないといわなければならない。
控訴人らは、管長事件において、相承が行われた事実はないと述べたのは、血脈相承等と称される事実行為としての儀式行為が挙行されなかったことを指摘したものであって、管長事件における主張は異説とはなりえないなどと主張する。しかし、被控訴人らは、これを争っているのであって、控訴人らの管長事件における言説が宗教上の血脈相承とどのような関係にあるかは本件紛争における本質的争点であって、宗規二条等に示されている宗教上の血脈相承即ち日蓮正宗の教義、信仰の内容に深くかかわるもので、裁判所が立ち入ることのできない領域であるというべきである。
被控訴人らは、ある言動が管長に対する誹毀、讒謗に当たるか否かという点は、一般の社会通念に従って判断することが可能であるというが、誹毀、讒謗に当たるか否かを一般の社会通念に従って判断することが可能な場合があるとしても、本件通告及び管長事件に至る経緯、本件通告文及び管長事件における主張の各内容に照らすと、少なくとも右通告文及び管長事件における主張の内容が管長に対する誹毀、讒謗に当たるかは、単に一般の社会通念に従って判断できるものではなく、日顕が管長の前提たる法主に就任したか否か、即ち血脈相承を受けたかどうかの判断が必要であり、それは、日蓮正宗の教義、信仰に深くかかわるものであり、宗教的評価なくしてはその該当性を判断できないものである。
以上のとおり、本件紛争の本質的な争点である本件処分の効力を判断するのに不可欠な処分事由の存否についての審理判断が許されないことが明らかになったが、なお、控訴人らは、処分手続違背及び権利濫用の主張をするので、付言する。控訴人らは、本件処分には、管長の異説裁定を欠くという処分手続違背がある旨主張するが、その趣旨は、日顕が管長であることを本来的に争うことをしないという前提ではなく、むしろこの点が本質的な争点であって、日顕は血脈相承を受けた法主ではなく、したがって、真の管長でない管長僣称者に過ぎないが、仮にそうでなく、日顕が血脈相承を受けた法主であり管長であると認定されるとしても、同人は異説裁定をしていないというものであると解される。そうだとすると、右の主張についても、日顕が管長であり法主であるか、即ち血脈相承の有無という宗教上の教義、信仰に関する事項を審理判断しなければならないものというべきである。また、権利濫用の主張も、本件処分は「異説主張・管長讒謗」に藉口してなされたものであるというのであるから、控訴人らの言説が異説に当たるか、日顕が管長か否かについて審理判断する必要があるところ、これを明らかにするためには、日蓮正宗の教義、信仰に深くかかわる血脈相承の有無に立ち入って審理判断しなければならない。
したがって、いずれにしても、本件紛争の本質的争点は、宗教上の教義、信仰に深くかかわる血脈相承の意義、有無にあり、これについては裁判所の審理判断が許されないものというべきであるから、本件訴訟は、その実質において法令の適用により終局的に解決することができないものといわざるを得ず、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」には該当しないというべきである。
四以上の次第であるから、控訴人ら及び被控訴人らの各訴えは不適法として却下すべきところ、これと異なり、被控訴人らの請求を認容し、控訴人らの請求を棄却する旨の本案判決をした原判決は相当でないのでこれを取り消し、本件各訴えをいずれも却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、九二条、九三条一項本文、八九条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官武藤冬士己 裁判官小野貞夫 裁判長裁判官三井喜彦は、退官につき、署名捺印することができない。裁判官武藤冬士己)